さくら葬祭の取り組み
2016.08.21
さくら葬祭の根底にあるのは『茶の湯の心』です。
すべての葬儀プランも『茶の湯の心』から誕生しました。
今回は利休と秀吉の逸話を例にして、
さくら葬祭の葬儀プランの原点をお伝えいたします。
利休と秀吉のあいだには花にまつわる有名な逸話が残されています。
当時、朝顔は大変珍しく、なかなか見られるものではありませんでした。
ある夏、利休の家にはその朝顔の花が垣根いっぱい、それは見事に咲いていました。
その噂を耳にした秀吉・・・
「ぜひ朝顔の花が見たい!見事な朝顔を見せてくれ」と利休に所望し、家を訪ねることになりました。
約束の日の朝、秀吉は「垣根いっぱいの満開の朝顔とはどのようなものであろうかのう。ほんに楽しみじゃ」
と、いそいそ出かけました。
ところが利休の家に着くと、垣根いっぱいに咲いているはずの朝顔の花が、ひとつも見当たりません。どこをどう探してもつぼみの一つもありません。
「えーい!これはどうしたことなのか!庭に、見事な朝顔の花があるというのはウソであったのか!利休め、だましおって、ただでは済まさぬぞ!」
秀吉の怒りは尋常(じんじょう)ではありません。
そこへ、利休の使いの者があらわれ、何食わぬ顔で
「ささっ、こちらでございます。」
と茶室に案内するではありませんか。
「なにを申す!?」
「とにかく、こちらからお入りください」
と、小間の躙り口(にじりぐち・・・刀を抜いて体を丸めないと入れない小さな入口)を指し示します。
秀吉が怒りながらも、しぶしぶ躙り口から小間に入ります
ほの暗い小間の床の間に、たった一輪だけ朝顔の花が生けてあるではないですか。
静謐(せいひつ)な空間の中に、まるでそこだけ光が当たっているように見えます。
生きいきと輝く一輪の朝顔の見事さに、秀吉は言葉もありません。
利休は、咲き乱れる花ではなく、茶室の一輪だけを見せるという演出をするために、庭の朝顔すべてを刈り取ってしまったのでした。
「これでもか」と多くを語ることをせず、あえて無駄なものはそぎ落とし、
そのものの持つ本質を表現する。
朝顔の逸話は、そんなことを教えてくれているように思います。
さくら葬祭の葬儀プランの原点はここにあります。
葬儀についての資料を
ご送付いたします。