なずな日記
2019.09.26
9月22日の読売新聞に、大切な人を失くした時はどうしたら、立ち直れるのか…という記事が載っていました。
同居の家族がいてくれれば、気が紛れるのかも知れませんが、今は夫婦だけの家族がかなり多いのではないでしょうか。そして、一人取り残される。
私もそうでした。
おいちゃんが亡くなってすぐのときは、葬儀の打ち合わせや参列者への挨拶で悲しむ暇もありませんでした。葬儀はすべきかどうか、という議論がよくなされますが、葬儀の忙しさで気が紛れるのは、かえってありがたいものでした。
そして葬儀が一通り終わった後、ポツンと一人で部屋に残されます。
人によって違うかも知れませんが、私の場合は一人になりたかった。いえ、おいちゃんと二人きりになりたかったと言った方が正確でしょう。
死んだら人は無になる。そう考える方も多いようですが、おいちゃんが亡くなっても、私にななぜか、無になったとは、思えなかったのです。
いなくなったわけではない、どこかでおいちゃんは私を見ている。そう思うのですが、姿が見えないというのは悲しいものです。
どんなことがグリーフケアになるでしょうか?私の場合は…
私は、おいちゃんの残した「読書記録」で、おいちゃんが読んだ本を、読んでたどっています。今でもそれは続いていますが、おいちゃんはよくこんなものを残したものだと思います。
時代小説で、食べ物屋が出てくる作品が多く、そう言えばお料理番組が好きだったなあ、など思い起します。
余談ですが、おいちゃんが最後に読んでいた本は、何も確認せずに図書館に戻してしまい、しまった!と思ったこともありました。
おいちゃんも私も、旅行が好きでした。思い出の地に一人旅しに行きました。新しい地に行く時も、おいちゃんが一緒に居ると思って行きます。
おいちゃんに遺影は一人旅の時は必ず持って行きます。登山のときは少しでも荷物を減らしたいので、スナップ写真をクリアファイルに入れて持って行きます。
趣味に没頭するのもいいことだと思います。私はランニングが趣味なので、おいちゃんが亡くなってすぐの時も、毎日のように走りました。はじめの頃は泣きながら走っていました。
大切な人を失くした後は、何をしても悲しいものです。そんな時に、
「時薬だよ!」
「いつまでも悲しんでいると、亡くなった人が悲しむよ」
なんて言われても、素直に受け止めることはできません。
もし、大切な人を失くした方に接するなら。
そっと寄り添う。何も言わずに肩をたたく。それ位しか、できないのではないかと思います。
なるほど徐々に、急性的な悲しみはだんだんと遠ざかっていきます。しかし、今まで当然のようにいた大切な人を失った事実は、消えることはありません。
おいちゃんがいなくなった後の生活は、おいちゃんがいたときを100点の生活とすると、60点、せいぜい70点程度の生活でしかないのではないか、と私は感じています。
でもね。
今日は60点、まあまあだ。
今日は70点、最高ですね~。
こんな風に100点を求めずに、幸せのハードルを下げることは、悲しみを和らげるための一つの方法だと思います。
おいちゃん、私は元気にしているよ。おいちゃんがいないこと以外は、幸せにしているよ。また、旅行にでも行こうよ。
ふと、読売新聞の記事下方を見ると、一人旅の広告が。
う~ん、商売上手よのう。
葬儀についての資料を
ご送付いたします。